2011年4月14日木曜日

博多万能ねぎはこうして生まれた


 






仕掛け人、杉山勇さんの功績を称えて

東京青果、蔬菜4部・部長であった杉山勇さんは、「博多万能ねぎ」をデビューさせた仕掛け人であることは分かっていた。しかし彼は現役時代、なかなか実情を話したがらなかった。なにせ「博多万能ねぎ」は日本農業賞受賞、天皇杯受賞に輝いていたからという配慮もあったに違いない。実力もないのに手柄を吹聴したがる人が多いなかで、彼だけはそうしたことを拒絶して異彩を放っていたのだ。

(写真:杉山勇さん)

今年はちょうど「博多万能ねぎ」が東京進出を果たして30年になる。「もういいでしょう?」ということで取材を申し込んだら快諾していただいた。2回に分けて、ほぼ12時間に及ぶ取材となった。「入社のいきさつ」から最近の「卸売会社の株の持ち合い問題」、「商社の動向」まで内容は多岐にわたった。杉山さんは30年前を髣髴(ほうふつ)とさせてくれて、「商材開発のノウハウ」、「産地形成のポイント」、「農産物のマーケティング論」はちっとも錆びていなかった。

ともあれ農産物のマーケティングを考える時、「博多万能ねぎ」を超えるヒット商品が出てこないのはなぜか。いま産地形成の仕掛けを作れないのはなぜか。考えさせられる問題ばかりである。そこで商品開発のお手本として、ここでは仕掛け人に焦点を絞り「博多万能ねぎ」誕生の秘話を探ってみた。

もう一つの市場「北口売り場」での決意 

杉山さんは昭和26年、日大農学部を卒業すると神田市場の東印(東京青果の前身)に入社。蔬菜1部を経て4部部長として着任したのが昭和51年。東京青果の伝統ある花形売り場「南」に対して、新しくできた売り場「北」は、「もうひとつの市場」としての気概があり「南」に対する猛烈な闘争心があったようだ。なにせ口先だけではなく、結果的に有言実行を完遂させたのだから・・・。

4部は杉山さんのスタート時の販売額が80億円。辞める時が200億円だから2・5倍の実績を残したことになる。人材では侍(サムライ)も多かった。部の勢いが感じられた。杉山さんが就任早々の課題として取り組んだことは「部の勢いを各県産地に示し、新商材開発で全体のレベルアップをしよう」ということであった。白ねぎ主流の関東で、周囲の「そんなもの、モノにならんよ」という冷ややかな声をよそに彼が取り組んだのは、山本五十六連合艦隊司令長官の「やって見せて、言って聞かせて、やらせて見て、ほめてやらねば、人は動かず」であった。

ところで静岡出身の杉山さんは「静岡でも青ねぎを食べるが、小さい頃に食べたあの美味しさを東京市場に持ち込みたい」と考えていた。出張先の福岡・西鉄天神ホームで立ち食いそばを食べた。あの青ねぎをたっぷりと入れて・・・。その時、そのねぎに閃きを感じた。このねぎを何とか全国区のねぎにしたいと思った。そのねぎは朝倉町周辺で生産されている九条系ねぎの若苗であった。以前、蔬菜1部時代は、朝倉町のきゅうりを販売したことがあったので、筑後川流域で肥沃な土壌に恵まれていた朝倉町界隈のことは知り尽くしていた。

昭和51年、2月の寒い日に杉山さんは初め福岡市農協に、日量20ケースを出荷してもらうことを必死に懇請した。農協では「地元市場向けを分配できない」との弁であった。それを「東京で消費拡大すれば、生産拡大される可能性は大きいです」ということで説得した。「東京では売れない、無謀だ」と判断されていたが粘り強い交渉の結果、やっとオーケーをいただいた。

しかし、露地栽培のため厳冬期には葉先が枯れて商品価値が低下してしまった。そこで策を練り直すことになり止む無く中止となった。だが杉山さんは諦めなかった。「だれも考えないことにチャレンジするのだから、覚悟はしていました。しかし、きっと福岡の生産者のためにはなると信じていました」と当時を振り返る。

以前、朝倉町ではハウス栽培をしていて夏ハウスの残量を見ていたこともあり、ふと朝倉町農協の森部賢一さんのことを思い出し、試験販売を依頼したがそれも続かなかった。そこで同年11月、公民館に集まった生産者を前に、杉山さんは朝倉ねぎの東京出荷の本格的な説得に当たった。引き受けてくれる仲卸も同行していた。福岡県園芸連東京事務所田中一二三所長も同席していた。予め販売先のスーパーも確保してあった。「朝倉のねぎはハウス栽培で商品価値がある。農協共販のメリットを生かし、東京で売れれば所得向上につながり、後継者も出来る」といくら力説しても生産者の反応は鈍かった。「こんなねぎが東京で売れるわけがない」と思っていたようだ。無論、まだねぎ部会もなく、農協はねぎの共販をしていなくて、生産者が近隣の市場に個人出荷していただけであった。

ここに杉山さんが着目したのである

バラバラの個人出荷より共同選果、共同出荷をすれば、輸送上の事故はなくなり、手間、時間が他に生かせると説得していった。そして、やがてここから産地が大きく動き出すことになる。まさに「その時、歴史は動いた」のである。

(写真提供:寺田秀三さん)

仕掛け人東京青果の杉山勇さん、引受人仲卸のファブス、産地側代表が福岡県園芸連東京事務所所長田中一二三さんのトライアングル体制が整っていたのである。また彼は次のようにも言う。「朝倉町農協の若き森部賢一さんに会って彼の熱意を感じた時、これはいけると直感しました」ということで内心自信はあったのだ。杉山さんが投げたボールを、森部さんがしっかりと受け止めた。奇跡的な出会いであった。一般的にはこうした関係になかなか恵まれない。かりに恵まれたとしてもなかなかモノにできないのだ。ここが産地形成での最も大切なところだ。この二人の出会いがなければ、青ねぎはあっても「博多万能ねぎ」は生まれなかっただろう。

「市場の人がそんなに言うのなら、取り組んでみようではないか」と徳永朝幸組合長(当時)が賛同してくれたのだ。この英断が流れを変えた。余名持地区の農家43戸が共同出荷に同意することになった。このときねぎの最低価格補償制度を作った。これが決め手になった。「あの制度がなかったら、みんなやらなかったんじゃないかな。それくらい最低価格補償制度の効果は大きかったですよ」と生産者にはいまでも言われる。こうして昭和51年に東京への青ねぎの試験販売が開始された。

翌年(昭和52年)、部会が正式に出来て青ねぎの栽培、共同出荷が始まった。「福岡高級青ねぎ」の名称で日量20ケースの出荷が始まったのである。葉先が変色するなど失敗も繰り返した。しかし最低価格補償制度が整ったために、生産者が一挙に増量体制で出荷過剰になり、市場価格は暴落し生産者、市場が価格低迷に苦しんだ。

怪我の功名で消費拡大へ

こうして予定数量以上の荷が出荷されるようになった。しかし、販売先のスーパーは決まっていたものの、関東では馴染みのなかった青ねぎは、予定数量以上かんたんに売れるものではなかった。

そこで杉山さんは「新しい商品を売り出すにはネーミングが大事」だと提案した。「東京では未知の野菜。だからどんな料理に使ってもかまわないから万能で意味があるんだ」、「商品サイズはL M Sでどれでも用途は多い」と畳み掛けた。つまり「煮てよし、生でよし、薬味によし」である。同時に神田市場周辺の食堂でも試食宣伝が行われ、スーパーでも試食販売が行われるようになった。九州出身のバイヤーは喜んで仕入れをしてくれたのだが、店内の反響は芳しくなかった。販売については市場もスーパーも試行錯誤が続いた。

しかしピンチのあとにはチャンスがくるものだ。予定数量10倍以上の入荷で販売価格を下げたため、地元市場への出荷を懇請することを提案した。そしてやっと適正数量に戻り新しい客層も拡大できてきた。予定数量以上の出荷で価格低迷に苦しんだことが、かえって関係者を発奮させ需要喚起につながっていった。いわゆる怪我の功名であった。新商材開発の場合、予定数量以上を急激に拡大して販売を展開すると必ず失敗するのだ。価格が低迷し産地では生産意欲をなくす。そして、いつの間にか産地が消えていくのだ。またどこの卸売会社のだれと組むかも、ものすごく重要である。産地側はこうした調査を疎かにするので新産地が育たないのだ。

一方、博多は大手企業の支店が多くサラリーマンの知名度も高い。博多どんたく、博多山笠など活気溢れるイメージがある。あれこれ検討の結果「博多万能ねぎ」に決定。産地では商標登録することになった。これまでのネーミングでは習慣として品種名をつけていたのだ。そこを商品名としたことは先駆けであり活気的なことであった。その後、デコポンなどが続いてきたのだ。

こうして商品名は付けられた。しかし鮮度問題が残る課題であった。福岡から東京までトラックで35時間。荷姿はダンボール箱、束は裸のまま。どうしても傷みが出る。当時の杉山さんのメモには「到着時の品質をよくするため森部氏は寝食を忘れ、あらゆる輸送方法(ガス輸送、低温輸送)を実験した」と記してある。収穫時間を変えたり、冷蔵トラックで輸送するなど産地はずっと鮮度保持に取り組んでくれた。

いやはや失敗が成功のもとになるとはこういうことだ。産地側では「どうしても東京へ出荷しなくてはならない荷物に積み残しが出て、急遽航空貨物で送ったら着荷状態がとても良かったのである」以後、空輸実験を繰り返し、昭和53年から本格的に輸送手段が飛行機に切り替えられ、「フライト野菜」としての先鞭をつけた。そして「空飛ぶ野菜」の時代が幕を開けた。

日本航空のJALマーク使用も意表をつくアイデアであった。こうした交渉の努力は、福岡県園芸連東京事務所所長の田中一二三さんである。「博多→東京90分」近さ、速さをアピールした。飛行機がステータスの高い時代に、JALのシールを貼った「フライト野菜」は鮮度のアップと同時にねぎに高級感を与えた。日本航空のスチューワデスが、博多万能ねぎを抱えたポスターをご記憶の方もあるだろう。心憎いばかりのポスターであった。鮮度、JALとの信頼関係も大いにアピールできた。

(JALカーゴのカタログにも掲載された)

産地では容器の材質の研究、予冷施設の導入とさらに鮮度保持を追求し、発砲スチロールの容器に変えた。こうして農協の迅速な対応で、品質は次第に向上していった。また100グラム一束として、小売店価格を百円と設定して、市場取引を「競売」から「予約相対取引」中心に据えていったことも特徴である。この予約相対取引は、当時は東京青果だけが取り組めた取引方法であった。とは言うものの、売れ残った箱が現場に積んであったこと、担当者が箱を担いで仲卸の店舗を一軒、また一軒と回って束にばらしてまで売り歩いたこともあった。担当者が売り込んでいくぞという意気込みで取り組んでくれた。翌週の入荷予定数を割り振りしていたのである。また売れるかどうかも分からない時に、販売に協力してくれたスーパーのバイヤーの熱意があったことも忘れてはならない。どんな商品でも販売戦略の基本は「売り込んでいこうとする熱意があるかどうか」が勝負を決するのだ。

53年1月、農協ではハッピ姿の婦人PR部隊を上京させた。本格的なセールスプロモーションが開始されたのである。「万能ねぎ部会」の若い主婦、朝倉町農協の女子職員ら八名で編成された。杉山さんはこうした女性の目覚しい努力があったことを、いまでも高く評価している。

彼女たちは朝が早い神田市場に出勤。活気溢れる市場内で仲卸業者、小売業者に九州弁丸出しで呼びかけ、万能ねぎを使った味噌汁を試食してもらった。みどり鮮やかな万能ねぎのチラシも配った。一方で彼女たちは競合産地の荷姿、包装材、ラベルなどのスマートさを市場でノートに記録した。

また料理店を借り切って新聞、テレビ、料理雑誌、専門誌などマスコミ関係者を招待し、酢味噌、寄せ鍋、チリ鍋、湯豆腐、親子丼など15種類の「万能ねぎ献立料理」が作られた。調理方法の宣伝を兼ねた試食会を展開、たいへんな好評を得て彼女たちは大いに自信がついたようだ。都内、千葉、神奈川などのスーパーの店頭で試食宣伝即売会も実施した。その店舗数は第二次、三次と続けて百店に及んだ。関西や九州出身の主婦たちは懐かしがって群がって買ってくれたのだ。ようやく「博多万能ねぎ」は世間に認知されだし、消費拡大へとつながってきた。怪物東京のマーケットは動き出すと、地方にない凄い消費力があるのだ。


日本農業賞、天皇杯受賞に輝く

産地から消費地に試食宣伝にきて収穫があるのは、競合産地の動向を肌で感じることと、一方で自分たちの反省をする必要を現場では体験させられることだ。婦人部の面々は荷傷みを発見しては、荷積みの方法を研究する必要があることも体験的に理解できた。生産者によって品質格差があることも肌で感じた。つまり品質向上にもっと努力する必要があることを体得した。「ラベルの色彩とデザインが良くない。黄色のラベルでは、ねぎの青みをさめさせ鮮度がよくない印象を与える」等の意見は女性らしい感覚であった。そして産地に帰るとすぐに改善されていった。生産意欲と消費拡大が運よくマッチングしてきて、相乗効果が出てきたのである。

さらに、こうした現場でのセールスプロモーションを体験したことが、次へと昇華していった。新商品を販売するのにはいかにマーケティングが大切か、 PRが必要か、広告代理店にメーカーの事例を話してもらい、広告に対する生産者の理解を促した。広告とは広く消費者に認知させるということだ。そしてラジオ、テレビCM、料理コンテスト、シンポジウムとマスコミを媒体にしたPRを積極的に行い、消費者に「博多万能ねぎ」を認知させ、農産物もブランド商品になり得る例を示したのである。

博多万能ねぎが旋風を巻き起こすと、さらに青ねぎ栽培が各地で盛んになってきた。しかし先行投資をしてきた博多万能ねぎは、やはり価格的にも他産地の追随を許さないようだ。また産地では新たな産業導入よりも、あくまでも農業再生のために博多万能ねぎの共同出荷体制を拡充し、地域住民の商品選別への協力を得るとともに地域に雇用の場をつくり、産地が活力を得て産地形成に大きく貢献したことを見落としてはならないだろう。

ついに「博多万能ねぎ」は昭和61年、第15回日本農業賞受賞、第25回全国農林水産祭で天皇杯受賞に輝いた。博多万能ねぎが首都圏にデビューするには、こうした弛まぬ努力があったことを忘れてはならないし、これからの商材開発のお手本となるであろう。

(写真提供:寺田秀三さん)

昭和51年、杉山さんが不退転の決意で産地で出荷要請の演説をぶった時、だれもこんなに早く30億円の大商材に育つとは思わなかったに違いない。「たかがねぎ、されどねぎ」だ。こうしてみると、いまさらながら卸売会社の役割がいかに重要かということが分かる。市場には新商材開発のヒントが無数にある。その地下鉱脈を掘り当てることができるかどうかは、その人の資質とやり遂げるという執念、それに人間同士の熱き交流が育んでくれるのだ。

巷間言われることだが「打つ手は無限、需要は創り出すもの」という言葉とともに「博多万能ねぎ」の30年を振り返ってみた。大切なことは途中で挫けそうになっても、なおやり遂げる執念を産地とともに、消費地の卸売会社、スーパーが共有することが大切なことである。そうした努力なくして新商材は育つものではない。平成7年4月、朝倉町農業協同組合(後年、甘木、朝倉、杷木の農協が合併し、筑前あさくら農協となり、部会も合同した)万能ねぎ部会では記念碑として「博多万能ねぎ里碑」を建立した。そこに杉山勇さんの功績もしっかりと刻み込まれている。




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*この稿は平成20年にソネブロに掲載したものですが、その後も「博多万能ねぎ」をマーケティングで超えられるものが出現していません。もう一度、光を当てたくてリバイバルさせました。